松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「松下幸之助とその社員は逆境をいかに乗り越えたか」唐津 一

松下幸之助とその社員は逆境をいかに乗り越えたか
【私の評価】★★★☆☆(78点)


■NTTで働いていた著者は、
 松下電器の真空管の品質が悪いので、
 松下電器の京都工場にたびたび文句を言っていました。

 そうして京都工場に出向いていた著者は、
 京都工場にやってきた松下幸之助に会うことなり、
 著者は松下幸之助に文句を言いながら、
 品質の大切さをとうとうと説いたのです。


■松下幸之助は、まだ30歳の著者の話をじっと聞きながら、
 最後に「そら、いい話や。・・・うちの幹部にも話してほしい」
 と松下で話をすることになりました。

 その後、著者は松下幸之助から、
 松下に来ないかと誘われ、松下電器工業に転職するのです。


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■著者は、その後、二十年間松下幸之助に仕えるのですが、
 「この人にはかなわないな」
 というのが実感だったようです。

 当時は戦後の混乱で、技術の進歩はありましたが、
 好不況の波があり、不況のときの苦労話が印象的でした。


■たとえば、ワープロぐらいの大きさの電卓を作っていたら、
 ポケットサイズの電卓が他社で開発され、
 不良在庫の山ができたとき、松下幸之助は在庫の廃棄を命じています。

 時代遅れの電卓を無理に顧客に販売しても、
 顧客のためにならないと考えたのです。

 ・電卓・・六億円の不良在庫・・・「これはもう売れんのやろ。
  技術が突然変わって自転車が急に自動車に変わったようなものや。
  それを無理して買っていただいても、買った方は後悔されるだけや。
  これだけは誰も予想できんかった。他の会社も同じや。仕方がない、
  全部捨てい。よう捨てんかったら、わしが買うたるわ。これでおしまい」
  このひと言で会議は終わった。(p28)


■また、不況で仕事がないときに、
 無理に安くして仕事を取ることを戒めています。

 仕事をしないことの損失は高が知れていますが、
 仕事で失敗すると膨大な損失が生まれる可能性があることを
 知っていたのです。

 ・商売をしないところから生じる損害というものはしれたものだと
  思うのです。ピシャッと一つの工場を休んでも、その損失はだいたい
  給料と通常経費です。けれども、売って損をするというのは大きいですよ。
  (松下幸之助)(p70)


■そして、松下幸之助の考え方は、
 「好況よし、不況もまたよし」というものです。

 不況ですと、買うほうも慎重になるため、良い会社が選ばれることとなり、
 不況だからこそ良い会社が伸びるのです。

 ・好況時には少々不勉強であっても、サービスが不十分であっても、
  まあどこでも注文してくれるわけです。・・・ところが不景気に
  なってくると、買う方は、十分に吟味し、経営者も金見されて、
  そして事が決せられることになるわけです。(松下幸之助)(p50)


■他の本にも書いてあることが多かったのですが、
 松下幸之助の入門編として良い本だと思います。
 ★3つとしました。


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■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・松下さんは、もし自分が総理大臣だったら実業家を一堂に集めて
  次のような演説をしてみたい、と述べている。「・・・商品の値段を
  上げなくても儲かる方法はあるはずです。・・・値を下げて儲けなさい。
  それには血のにじむような苦心がいります。知恵がいります。努力が
  いります。それをやってください。(p66)


 ・紙一重の差にすぎなくても、日々、謙虚に自己反省し、
  改善の努力をした会社と、しなかった会社とでは、長い年月の間に
  大きな差ができるというわけである。(p187)


 ・日本の企業は、アメリカの企業と同じように能力主義を導入し、
  社員の努力に対してお金で報いようという姿勢が強くなっているけど、
  気をつけたほうがいい。お金というのは麻薬と同じで、はじめはよく
  効くけれど、その後、どんどん増やしていかないと聞かなくなってしまう
  (ピーター・F・ドラッカー)(p39)


▼引用は、この本からです。

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松下幸之助とその社員は逆境をいかに乗り越えたか」唐津 一
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【私の評価】★★★☆☆(78点)


■著者紹介・・・唐津 一(からつ はじめ)

 1919年生まれ。大学卒業後、48年日本電信電話公社入社。
 松下幸之助の強い要請で、61年松下通信工業に転職。
 78年に常務取締役、84年に松下電器産業技術顧問。


■関連書評■
a. 「人を見る眼 仕事を見る眼 松下幸之助エピソード集
【私の評価】★★★★★

b. 「松下幸之助の見方・考え方」PHP研究所
【私の評価】★★★★☆

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。