松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「決断の経営」松下幸之助、PHP研究所

[新装版]決断の経営
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松下 幸之助
PHP研究所
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(評価:★★★☆☆)


●松下幸之助は,よく,自分は運がよかったのだと言っています。それは
 なぜでしょうか。


●まず,松下幸之助が成功した条件として,体が弱かったということが
 あります。兄二人が結核で死んでおり,さらに自分も二十二歳で結核
 の初期症状がでてしまい,死を覚悟しました。


 ・そこで私が考えたことは、どうせ同じ死ぬのであれば、養生して
  寝ながら死ぬよりも、働けるだけ働いて死ぬ方がいい、ということ
  である。(p58)


●松下は,大阪電灯(後の関西電力)のサラリーマンでしたが,自前の
 才覚で検査員に昇格し,楽な仕事をしていました。しかし,そこから
 一転してソケットの製造・販売のために独立し商売を始めたのにも理由
 があるのです。


 ・父は私に向かって、「商売で身を立てるのが一番お前のためだ。商売で
  成功すれば立派な人を雇うこともできるのだから、給仕などするのでは
  ない。(p25)


●このように,人を動かす才覚を持っていた松下ですが,家族,健康,
 世の中の環境などの影響を受けながら,松下電器を作り上げたので
 す。その条件の一つでも欠ければ,今の松下はなかったかもしれま
 せん。


●それにしても松下の人を動かす能力には驚かされます。この本には
 37の体験談が収録されていますが,正に,未来と将来の間に線路
 を引き,未来を引っ張ってくるような力強さと英知を感じました。


 ・電器業界の場合でも、二人の横綱がいてこそ、業界がさらに向上
  発展していくのです。そういう意味から、松下電器を横綱に育てる
  ためにもこの電球を三十五銭で売ってください。(p41)


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・つね日ごろから、そういう人間としての精神の持ち方とか、いわゆる
  常識的な事柄を十分に教えてこなかった私自身にも大きな責任がある。
  そう気づいた私は、心にふかく決意したのであった。これからは、人間
  としていかにあるべきかということについて、みんなと考えあっていこう。
  そして私なりに気づいたことは大いに言っていこう。たとえみんなが
  反対しても、みんなの気にさわるようなことであっても、教えるべき
  は正しく教えていこう。そうして言うべきことは断固言っておこう。


「決断の経営」松下幸之助、PHP研究所(1989/7)\428
(評価:★★★☆☆)


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【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。