松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「道は無限にある」松下 幸之助、PHP研究所

道は無限にある
【私の評価】★★★☆☆(77点)


■松下幸之助さんの本のなかでも、
 ( 硬め )の内容の一冊でした。

 この本を読むと「覚悟」ということを
 再認識させられます。


■「覚悟」というのは、松下幸之助さんが、
 いかに経営というものに対して真剣であったのか、
 つまり、( 命 )をかけていたのかということです。

 ・私自身も、自分はこの仕事に命をかけてやっているかどうかと、
  これまで困難な問題に出くわすたびに自問自答してきました。
  そうすると、非常に煩悶の多いときに感じることは、命をかける
  ようなところがどうもなかったように思われるのです。(p224)


■どこからそうした覚悟がでてくるのかと推察してみると、
 松下幸之助さん自身、体が弱く、いつ死と対面しても
 おかしくない状況であったこともありますが、

 自分の事業というものが、社会に求められ、
 必要とされているものであるという確信があったと
 思うのです。

 ・私が事業を始めたのも、将来、電気機器というものは社会に
  必要なものとして発展いくだろうということで、自分で電気機器の
  製造を思い立ったわけです。(p39)


■そうした自分の使命というものを自覚することで、
 不安な気持ちを奮い立たせ、
 日々一日、一日、進歩していこうということを
 松下幸之助翁は問い掛けています。

 ・商売に携わっている人であれば、なかなか思うようにものが売れない
  といった不安があると思います。・・・しかし見方を変えてみれば、
  その不安に向かって、それをどう打破していこうかというところに
  生きがいを感じることもできるのです。(p65)


■硬めの内容ではありましたが、
 松下幸之助翁が、どうしてこのような心境までに、
 心を高められたのかを想像しながら読ませていただきました。
 ★3つとします。

─────────────────

■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・日本のこの二千年の歴史を顧みますと、非常に多くのものを
  外国から取り入れ、そして、日本の主座を失うことなく、
  それを自分のこやしとして活用しつつ発展してきています。
  (p166)


 ・十二月の大晦日に、どうしてもこの金を払わないといけないのに、
  時計を見れば十一時です。・・・普通なら十一時頃に集金に行けば
  非常に叱られる。しかし、きょうは大晦日だから、十一時をすぎて
  集金に行っても叱られることはないだろう。よし行こう。(p13)


 ・みなさんは一年一年にどれだけ伸びているか、ということです。
  ・・・私は五パーセント伸びました。私は十パーセント・・・
  というふうに、自分でいえるかどうか。(p101)


▼引用は、この本からです。

道は無限にある
道は無限にある
posted with amazlet on 07.11.24
松下 幸之助
PHP研究所 (2007/10)
売り上げランキング: 39931
おすすめ度の平均: 3.0
3 究極

【私の評価】★★★☆☆(77点)


■著者紹介・・・松下幸之助(まつした こうのすけ)

 松下電器創業者。

─────────────────

■関連書評■
a. 「人を見る眼 仕事を見る眼 松下幸之助エピソード集」PHP研究所
【私の評価】★★★★★

b. 「松下幸之助の見方・考え方」PHP研究所(2006/12)¥840
【私の評価】★★★★☆

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。