松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

成功の法則―松下幸之助はなぜ成功したのか |江口 克彦

成功の法則―松下幸之助はなぜ成功したのか
江口 克彦
PHP研究所 (2000/12)
売り上げランキング: 70,791

(私の評価:★★★★★:絶対お薦めです!家宝となるでしょう)


●著者紹介・・・江口 克彦

 1940年生まれ。大学卒業後、松下電器に入社。その後PHP研究所。
 1976年より経営を任され、1994年より副社長に就任。


●PHP研究所の秘書から経営者となるまでの22年間、
 著者は松下幸之助のもとで働いてきました。


●その22年間は、朝4時に松下から電話がかかってくる。
 夜中に電話がかかってきていま、すぐ来いと言う。
 土曜日曜もなく、夜はしばしば松下幸之助と食事を共にし、
 10時、11時まで過ごすというすごい生活です。


●しかし、著者は、辛いこと、苦しいことはなかった。
 むしろ楽しい22年間だったといいます。
 それは、松下幸之助との仕事は、感動の連続であったからです。

 ・「ああ、江口君か、わしやけどな。夜遅く電話をしてすまんな。
   けどな、わし、君の声を聞きたかったんや。君の声を聞いたら、
   元気が出るんや」(p40)


●江口氏の語る松下幸之助のエピソードに、いちいち私が感動して
 しまうのですから、その現場にいた江口氏の感動は、
 よほどのものであったのでしょう。


●思わず、その松下幸之助の世界に入り込んだような気持ちになる
 一冊です。

 ・叱るときには、本気で叱らんと部下は可哀想やで。策でもって
  叱ってはあかんよ。けど、いつでも、人間は偉大な存在である
  という考えを根底に持っておらんとね(松下)(p170)


●数多くのエピソードに、松下幸之助がそばにいるような感覚さえ
 おぼえる心からお勧めの名著として★5つとしました。


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・「きみ、風の音を聞いても悟る人がおるわなあ」(松下)(p22)


 ・衆知を集めないというのは、言ってみれば、自分の財産は自分が
  持っている時だけしかないと思っている人と同じやね。少しひらけた
  人なら・・・全世界は自分のものだと思っている。しかし全部
  自分で持っているのはめんどうだから預けておこう、というような
  もんやな。(松下)(p48)


 ・松下は、自分の言葉で、謙虚に話していた。それだからこそ
  多くの人が感動したのだと思う。・・・人間は、相手が自分を
  本質的にどう捉えているかということを、正確に察知する。(p179)


成功の法則」江口 克彦、PHP研究所(2000/12) ¥540
(私の評価:★★★★★:絶対お薦めです!家宝となるでしょう)

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。