松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「叱り叱られの記」後藤清一、日本実業出版社

叱り叱られの記
叱り叱られの記
posted with amazlet on 06.07.29
後藤 清一
日本実業出版社 (1987/09)

(私の評価:★★★★☆)


●多くの本を読むなかで気がついたことですが、成功している人、お金持ちの人は、「私は運がよかった」とよく言っています。「夢を持った、苦労した、でも運良く成功した」こういう感じです。


●でも本当に運なのでしょうか。ポイントは「苦労した」というところで、この中身が問題です。成功している人は真剣に苦労しています。そして、諦めません。成功するまで、工夫するのです。その真剣さが運をひきつけます。


●ですから、これは運ではないのですが、そこを「運がよかった」ということで、謙虚に次の成功に進めるのでしょう。


●この本で私が共感したところは次のとおりです。


・私情にかられてのそれ(叱る)はいけないけれども、ものの道理にはずれたことをした人には真剣に叱る、それは人情を超えた、人間としての大切なつとめの一つではないだろうか。(松下幸之助)


・(松下幸之助は)甘やかせたり、ベタ褒めする、ということもされなかった。厳しくする時には厳しく筋を通す。一方、功績があれば、それを認めて褒める。何でもないことのようだが、これを自然に行うということは、なかなかむずかしいことであろう。


・「できるだけやります」-これほど人を侮蔑したことばはない。初めから逃げ道をつくっての返答。私のもっとも嫌うところである。


・(松下幸之助は)社員をなんとか一人前にしてやろうという愛情、あふれ出るような正義感、さらに方針というか、ひとつの企業の理想像を持っておられた。そのどれにふれても雷が落ちる。


・松下という人は、つねに遠くを見ている。その遠くから、現在只今にグッと二本のレールを敷く。そしてそのレールの上をひた走った感がある。あの激しさは、それ以外の何物からくるものではない。松下の経営はこうあるべきや。松下の社員はかくあるべしや。大将の頭の中には、理想がある。理想の経営というものに対する動機づけ、方向づけに寄せるあふれ出るような意欲と気迫だ。


●この本は、松下幸之助、井植歳男という二大経営者に仕えた後藤清一氏の経験を綴った書です。やはりなんといっても、前半の松下幸之助、井植歳男とのやり取り、経験談が圧巻です。ただ、呆然と読み進む私がいました。「これでは、だれでも松下電器のために命をかけて働くな」というのが読後の感想です。


叱り叱られの記」後藤清一、日本実業出版社

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。