松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「志のみ持参」上甲 晃、致知出版社

志のみ持参―松下政経塾十三年の実践録
上甲 晃
致知出版社 (1994/09)
売り上げランキング: 182,312
おすすめ度の平均: 4
4 中間管理職向け?

【私の評価】 ★★★★★:絶対お薦めです!家宝となるでしょう


■著者紹介・・・上甲 晃

 1941年生まれ。大学卒業後、松下電器産業入社。
 1981年松下政経塾に入職。85年同塾塾頭。
 88年同塾理事・評議員。94年から同塾常務理事・副塾長

●本日は、私の目を覚ましてくれた一冊です。


●松下政経塾といえば、多くの政治家、実業家を生み出している
 ブランドともいえる私塾ですが、初期の運営では
 とてつもない問題ばかりだったようです。

●昭和五十五年に松下政経塾を開塾したとき、
 九百名もの応募者があり、そのなかから二十三名が選ばれます。

 その選りすぐられた二十三名に対し松下幸之助は、
 塾生に期待する話をしました。

●そしてその話の最後に、松下幸之助は

  「・・・二十一世紀の世界、日本を担って立つために、
   明日から毎朝しっかりと努力してほしいことがある」(p73)

 と言ったのです。
 塾生は身を乗り出して、次の言葉を待っていました。
 すると松下幸之助は次のように言いました。

  「明日から、朝、早う起きて、しっかり掃除してくれ」(p74)

●松下政経塾の初年度には、
 企業から来た塾生はほとんどが辞めました。
 その原因が、掃除なのです。


●経営の神様から、経営のコツを教えてもらおうと来てみたら、
 毎朝掃除をちゃんとしなさいと指導されるわけです。

 塾生のなかには、次のようなことを言う人もいたようです。


 「みんなで相談した結果、みんなが掃除はやめとこうかという
  ふうに決まったら、これはやめていいでしょうか」(p84)

 「それは塾長の横暴ではありませんか」(p85)

●松下幸之助は、掃除もちゃんとできない人が
 日本の政治の掃除ができるはずがないと考えていたのでしょう。

 一事が万事であるということです。

●松下幸之助は、こうした塾生に対し、このように言っています。

 ・相談して変えることはものによる。・・・
  この掃除は、みんなで相談をして、相談した結果やるとかやめるとか
  いうもんではない。これは政経塾の方針である。
  この方針に合わなかったら、君が塾をやめてくれ(p85)


●八十五歳も超えた松下幸之助は、こいつらは青二才やなと
 思ったでしょうが、諦めることなく説得しているのです。


●松下幸之助は、何事も、成功するためには自らの意志で
 継続することが大切であることを早朝の掃除で
 伝えたかったのでしょう。

 この本は、まさに松下幸之助の成功の秘密が伝わってくる一冊です。
 ★5つとしました。

■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・お歳暮にナショナルラジオを贈るというときに・・・
  カタログを見せながら言ったら、ひとこと言われました。
  「君、自分で使ったんか」と。(p182)


 ・まず最初に目に見えるものをしっかり磨きなさい。
  それを一生懸命やっているうちに、気がついたら
  目に見えない心も磨かれていますよ(p147)

志のみ持参」上甲 晃、致知出版社(2005/6)¥1,260
【私の評価】 ★★★★★:絶対お薦めです!家宝となるでしょう
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【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。