松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「きっと芽が出る人」の法則 |江口 克彦

「きっと芽が出る人」の法則
江口 克彦
PHP研究所 (2005/03/02)
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おすすめ度の平均: 5
5 壁を越えるヒントがあります。
5 松下幸之助の教えが詰まっています。


賢い人はかえって危ないんやな。平凡な人に仕事をまかせると、あまり成功もせんが、つぶしもせんで平凡に時を過ごしていく。けど、賢い人は会社を興すが、また同時に会社をつぶすんやな。支配人を決定するとき、あんまり賢い人であったら、うまくやってくれるだろうという期待が持てるかわりに、つぶしよるという点も併せて考えておかんといかんな。賢いから安心ではない。賢い人は独断専行をやるから、危険なんやな。(松下 幸之助)


●多くの松下幸之助の本を読んできましたが、松下幸之助の人をみる目には奥深いものがあります。自分が見つめられているような気さえしてきます。


きっと芽が出る人の法則」 江口 克彦

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。