松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「人を活かす経営」松下幸之助,PHP研究所

人を活かす経営
人を活かす経営
posted with amazlet on 06.07.29
松下 幸之助
PHP研究所 (1989/12)

(私の評価:★★★☆☆)


●松下幸之助の言葉には、しびれるような迫力があります。それは何でしょう
 か。やはりそれは「熱心」さなのです。思わず感心してしまう「熱心」さで
 す。


●商品を売りに行って、値切られるとします。そんなとき松下は自信を持って
 この商品は我々が熱心に作ったものなのです、どうか買っていただけません
 か?と取引先の主人に語りかけます。

 ・原価は二十銭ですから、二十三銭にできないことはありません。しかし、
  ご主人、この商品は私を含めて従業員が本当に朝から晩まで熱心に働いて
  つくったものです。原価も決して高くついていません。(p27)


●松下は本当に熱心ですから、その迫力がこの言葉から伝わってきます。


●また、銀行の融資を受けるとき、担保を要求されたときのことです。当時
 の松下電器にとってはよい条件でしたが、松下電器がさらに発展するため
 には、「信用」を育てなくてはならないと考え、次のように答えます。

 ・お話は大変ありがたいのですが、しかし不動産を担保にして借金すること
  は、やはり今の松下電器にとっては好ましくないと思います。まことに
  申し上げにくいのですが、これはひとつ無条件貸付にしていただけない
  でしょうか(p210)


●これは、最初のトランジスターラジオをアメリカに売りに行った盛田昭夫
 がブローバ社からの大量発注を断ったのと似ています。ソニーブランドを
 世界に広めようと考えていた盛田は、ブローバ社という商標を付けて売る
 ことを拒否しています。


●十年後、二十年後の姿を思い描き、現在とそこへレールを敷き、組織全体
 をそのレールに乗せていこうとする、その熱心さこそ経営というものなの
 でしょう。


人を活かす経営」松下幸之助,PHP研究所(1979/09)¥850
(私の評価:★★★☆☆)

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。