松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「わが経営を語る」松下幸之助、PHP研究所

わが経営を語る
わが経営を語る
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松下 幸之助
PHP研究所 (1990/07)
売り上げランキング: 104,132

(私の評価:★★★☆☆)


●松下幸之助という人を考えるとき、その考え方が非常に素直だということに
 驚きを感じます。素直というのは物事の本質をそのまま受けとめ、自分のな
 すべきことを考えるということです。


 ・競争が激しいから経営が困難になったということは、その会社なり商店が
  なすべきことをしていないから困難を感じるのです。なすべきことをなし
  ていれば、競争が激しければ激しいだけ、かえって高く評価されて、お得
  意が集まってくることにもなると思います。(p90)


●例えば、弊誌は1万部を目指していますが、まだ目標に達していません。これは、内容が未熟ということもあるでしょうが、もし、毎日、相互紹介を行っていれば、目標にもっと近づいていたはずです。

●いくら、私の本当にお奨めするメルマガのみ紹介すると自己規制している
 とはいえ、死ぬ気でよいメルマガを探せば毎日紹介をできないことはない
 はずです。


 ・成功する会社と成功しない会社の差というものは、私は紙一重だと思い
  ます。(p109)


●こうした毎日毎日の積み重ねが、結果として表われているだけだという認識、
 そして、だからこそ実行するのだ、という厳しさが松下幸之助の生涯を貫く
 理念だと思います。


 ・「松下電器はこれからどこまで伸びていくでしょうか」という質問を受け
  たのですが、それは私には分りません。それは私や会社が決定すべきこと
  ではなく、社会に決めていただくことだと思います。(p186)


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・熱意がこもると、ことばの節々に激烈さが加わるかもしれません。しかし、
  それは真剣なもののあらわれである、と、よく理解していただきたのです。
  (p41)


 ・給与については、常に時を考え、業界を考え、国を考え、そしてこの程度
  ならば世間の承認を得るだろう、この程度に対しては、いろいろな点から
  いって問題は起こらないだろう、また、この給与ならば長くつづけられる
  であろうというような点を勘案して、給与というものを考える、これが
  非常に大事であります。(p164)


・指導者として事を行なうのは、いわゆる公事であって、私事ではない。・・・・・・だから指導者はそのことに怠りがないよう、自分に対して、また下の人に対して、ある種のきびしさを持たなくてはならない。


・指導者は体は遊んでいても心は働かせていることが大事である


・指導者は世間のこわさを知り身を正していかなければならない


・小事にとらわれて大事を忘れてはならないが、小さな失敗はきびしく叱り、大きな失敗に対してはむしろこれを発展の資として研究していくということも、一面には必要ではないかと思う。


・理外の理:指導者はふつうの理をこえたより高い理を知らなくてはならない


わが経営を語る」松下幸之助、PHP研究所(1990/07) ¥510
(評価:★★★☆☆)

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。