松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

松下幸之助翁82の教え―私たち塾生に語った熱き想い |小田 全宏

松下幸之助翁82の教え―私たち塾生に語った熱き想い
小田 全宏
小学館 (2001/10)
売り上げランキング: 3,986
おすすめ度の平均: 5
5 目の前に立って教えてもらってるような
5 松下幸之助入門書として最適

(私の評価:★★★★★:絶対お薦めです!家宝となるでしょう)


●著者紹介・・・小田 全宏

 1958年生まれ。松下政経塾入塾。人間教育を研究。1991年(株)
 ルネッサンス・ユニバーシティを設立し、企業向け人材教育実践活動を行う。
 1996年NGO団体地球市民会議・リンカーンフォーラムを立ち上げ、
 総選挙・知事選挙などで公開討論会を600回以上開催。2000年から
 「首相公選の会」を主催。


●私は松下幸之助関係の本はほとんど読んでいると自負していました。しかし、
 この本が抜けていたとは・・・。


●驚くのは、私の知らないエピソードが5つ以上あったということです。松下
 政経塾で直接学んだ著者の面目躍如でしょう。

 ・第一期生の入塾式の時、松下翁は風邪をひき体調がすぐれなかったが、
  それを押して登壇された。・・・「今日、私は死ぬ気で来ました。しかし
  もし、日本に命運があるなら必ず私を継いでくれる人が現れる。そういう
  人が一人でも出てきたらこの塾を開いた価値がある」(p127)


●さらに私の知っているエピソードも、うまく伝えてくれますので、思わず
 二回も涙してしまいました。著者の筆力によるものでしょうが、それにしても
 松下幸之助の話はどうしてこうも心を動かすのでしょうか。

 ・松下翁と縁のある人と話をしていると、かつて松下翁と面談した際、
  面会が終わった後、わざわざエレベーターのところまで見送りに来て、
  エレベーターの扉が閉まる時に、深々と頭を下げた松下翁の姿が
  瞼に焼き付いて離れないとよく言う。(p182)


●こうして松下のエピソードをざっと見てみると、松下の叱り方というものは、
 「これができないようでは、君の使命は達成できないぞ!」というもので
 あることがわかります。ここに人を動かす要諦があるように感じました。

 ・松下翁は、塾生に向かって四六時中、「掃除をきちっとしているか」と
  語りかけていた。「掃除が完全にできない人間に、世の中の掃除など
  できない」と言うのだ。(p33)

 ・松下翁が一度だけ私たち塾生に立腹された・・・礼状を書くことを失念して
  しまったのである。松下翁はそのことに触れ、「礼状一本書けんようでは、
  天下のことはできんな」とおっしゃったらしい。(p256)


●最後に、この言葉を皆さんに贈りましょう。

 ・未来は人がこうありたいと願うことで
  より確かなものになると思うなぁ。
               松下幸之助(p2)


●松下幸之助の言葉と心を伝える名著として、心から推薦いたします。


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・社会の本当の姿を学ぶには、本の中だけではまったく足らんで。本は
  あくまで空論やな。現実はもっと違うな。君らはまずガード下に行って
  靴磨きをすることや。どうしたら儲かるか考えてみ。そしていろいろ
  工夫するんや。そして靴磨きから人を見てみ。いろいろ見えるで。
  (松下幸之助)(p70)


 ・君らが仮に選挙に出たとしても、相手の政党や候補者の悪口は絶対
  言ってはいけませんな。むしろ、あそこの政党も頑張っておられます。
  あそこの政党の政策も結構よく考えられておられます。でも一つ、
  私たちの話も聞いてください。私たちの政策も素晴らしいもんでっせ!
  と、こう言うのや(松下幸之助)(p157)


 ・会社の社長でもね、私心があったらあきませんな。・・・私は、私心を
  持たないように、『私』というものを忘れないかん、ということを終始
  自分で言うて聞かしてるんですよ。会社というものは天下の預かり物や。
  (松下幸之助)(p171)


 ・松下翁は生前塾生に向かってしばしば「君らな、言い出しべになれ」と
  語っていた。「言い出しべえ」とは要するに何かを始める時には真っ先
  に始めよということだ。この「言い出しべえ」になるというのは言葉
  では簡単だが、実際にはなかなか難しい。(p224)


松下幸之助翁82の教え」小田 全宏、小学館(2001/10)¥580
(私の評価:★★★★★:絶対お薦めです!家宝となるでしょう

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。