松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

「人事万華鏡」~こわさというものがなければ、安易に流されてしまう

人事万華鏡―私の人の見方・育て方
松下 幸之助
PHP研究所 (1977/09)
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しかし先にもいうように人間は概して易きにつきやすいものである。厳しく注意されたり叱られたりする、いいかえればある種のこわさというものがなければ、ついつい安易に流されてしまう。こわさがあって、はじめて、みずからを引き締めて事にあたるという面もあるのが人間である。


●人を愛する。そして人間というものを理解したうえで、その人のために厳しくなれる。
 そこまで真剣に人のことを考え、自分の行動に織り込めるのか、そういう人間になれるのか。


●私は自信がありませんが、それを目指さなくてはならないのでしょう。


人事万華鏡」 松下 幸之助

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。