松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

道をひらく 続 (2)

道をひらく 続 (2)
道をひらく 続 (2)
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松下 幸之助
PHP研究所 (1978/01)
売り上げランキング: 1,154
おすすめ度の平均: 5
5 最初の「道をひらく」とはまた違う!

【私の評価】★★★☆☆

■著者紹介・・・松下 幸之助

 松下電器、ナショナル、パナソニック創業者。


●松下幸之助が、日々、どのようなことを考えてきたかが
 わかる一冊です。

 松下幸之助は「風が吹いても、悟る人がおるわな」と言っているように、
 自然の法理、世の中の摂理というものをよく考えていたようです。

 ・砂糖はあまく、塩はからい。全くの正反対。だから、あまくする
  ためには砂糖さえあればよいので、塩は不用に思えるけれど、
  その正反対の塩をすこし入れることによって、砂糖のあまさはさらに
  深味を増す。・・・対立大いに結構。・・・排することに心を労する
  よりも、これをいかに受け入れ、これといかに調和するかに、心を労したい。
  (p21)


●つまり、そうした人間の特性、社会の法則、自然の摂理に
 従えば道が開け、逆らえば失敗するということを
 悟っていたのでしょう。

 松下幸之助は、そうした理屈では理解できない自然の摂理を、
 『理外の理を知らなくてはならない』とも表現しています。

 ・起こってほしくないことが、次から次に起こってくる。・・・
  因があるから果があるので、不用意、不心得の因があれば、起こっては
  ならないことも起こってくる。・・・不用意、不心得を徹底的に
  反省しなければならない。(p37)


●私の一番の驚きは、松下幸之助のグチをはじめて読んだということです。
 松下幸之助でもグチっていたとは!!

 しかし、グチを言っても、すぐに「今からでも遅くない・・・」と、
 これからの自助努力を誓っています。

 ・計画の立てかたが悪かったのか、力以上に望みすぎたのか、それとも
  しょせんは自分の意志が弱かったのか。・・・ついグチも出て、他に
  罪をかぶせて、ますべきこともつい怠りがち。・・・グチは言うまい。
  今からでもおそくない。今からでもおそくないのである。(p33)


●体系的ではありませんが、
 松下幸之助が日々、どのようなことを考えていたのか、そして
 どのような思考をしていたのか、参考となる一冊です。

 組織のリーダー、国家のリーダーに
 読んでいただきたいと思いました。★3つとします。


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・やってはならんときには、やってはならん、
  そして、やらねばならんときには、断固としてやる
  これがつまり武士道というものなのである。
  わが身の利害得失のみで是非善悪を論じ、出処進退を決するならば、
  これは動物と大して変わりのないことになる。(p43)


 ・天地は日に新たであり、人の営みもまた日に新たである。だから
  ほんとうは、昨日の考えは、きょうは一新されていなければならない
  ・・・危機とは転機の自覚のないことをいうのである。(p109)


 ・同じ人間である限り、自分も他人も顔の造作が大体同じであるように、
  心の働きも、人によって、もともとそんなに大きなひらきのあるもので
  はない。・・・そのくせ、ほんのわずかの心がけのちがい、考え方の
  ちがいで、人を幸せにもし、不幸にもする。(p213)


 ・若き人びとよ。・・・こんどはあなたとあなたのこどもの
  ための世紀を、みずからの手でつくりあげなければならない時が
  きているのである。世界をどう変えるのか。日本をどんな国に
  していくのか。そのなかで、自分はどんな役割を果たしていこうと
  するのか。二十一世紀は、もう始まっている。(p263)


▼引用は、この本からです。
道をひらく 続」松下 幸之助、PHP研究所(1978/1)¥914
【私の評価】★★★☆☆
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【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。