松下孝之助の本を読んでいると、思わず姿勢を正している自分を発見します。

その本はやさしく問いかけてくるのですが、その端々に怖いくらいの力強い思いが含まれているのです。

経営のコツここなりと気づいた価値は百万両

経営のコツここなりと気づいた価値は百万両
松下 幸之助
PHP研究所 (2001/05/01)
売り上げランキング: 26,138
おすすめ度の平均: 5
5 経営コンサルを雇う前に
5 和製コロンブスの卵?


<値切って信頼されてこそほんとうの仕入れ>
人間というのは妙なもので,商売で値切り方が下手だとバカにされます。「甘い
な」というようなものです。


●確かに、不思議なもので厳しくない上司は部下としては楽ですが、「甘いな」
と思うことがあります。


●厳しい上司は面倒ですが、飲み会では「厳しいが、言っていることはわかる」
などと褒めたりします。


●言い方は優しく丁寧だが、よくよく考えた厳しいことを言ってくる。こういう
人が理想でしょうか。


経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」 松下 幸之助

【松下孝之助の生涯】
1894年生まれ。1989年永眠。

和歌山県和佐村で小地主8人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が相場で失敗し、小学校を中退、単身、親元を離れて大阪に丁稚奉公に出ます。

その後、自転車店、セメント工場などに務めた後、これからは電気の時代が来ると直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に入社し内線係見習工となります。

そして、22歳の時に会社を辞めて独立。電球ソケットを製作、販売するも、商品が売れずに食費にも困るような苦労をします。

その後、徐々に受注が増え、翌年には松下電気器具製作所を設立。ランプ、アイロンなどを製作し、1930年に非常に故障の少ないラジオの開発に成功し、これで松下の名前は一躍有名になりました。

1933年には事業部制を実施し、本体は松下電器産業株式会社に改組する一方、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船などといった関連会社を次々と設立していきました。

戦後は一時GHQによる財閥解体の余波で生産活動ができない状況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取り、昭和30年代には完全に復活しました。

その後、1952年にはオランダのフィリップスと提携。1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていくのです。

第一線から身を引いた後は、PHP運動を通して真理の社会的実践を目指しました。

1980年には、これからの日本には信念あるリーダーが必要と考え、松下政経塾を開塾。多くの有望な政治家の育成に努めたのです。